暮らしの読み物

部会や倶楽部の会員の方々のご協力により寄稿されました。
論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。


地下足袋日記   1   2   3   4   イギリス編
「遺伝子の命ずるままに 住吉高灯篭建立の奨め」   1  (PDF形式)
味読「やさしさを生きる…」   1   2   3   4   5
ロハスライフ   1
あかりと遊ぶ   1   2   3
アイビー文化を楽しむ   1   2   3   4   5
やきもの小話   1   2   3   4   5   6
35日間の熟年夫婦の旅日記   1-1   1-2   2   3   4   5   6


ピレネー越え、モンサンミッシェル→サンマロー→パリ→バーゼルへ戻る

  パンプローナのホテルを早朝四時三〇分、泥棒まがいのぬき足さし足で細い急な階段を下り、玄関ドアを開け、約束通り外のボックスに鍵を入れての出発となった。
昨日必死の思いで坂道を登ってやって来たこの町も、十数時間の滞在で離れることになる。
  有名な観光地とあって、早や清掃車が出て石畳の道を水圧ホースで見事に洗い清めている。明け方までバーで飲み明かした若者達の帰路を急ぐ姿もあった。
  思いの外、街燈が明るかったので一時間足らずで駅へ着くことが出来た。すでに五、六人の乗客が待っていた。
  恐らく乗客は我々だけだろうと思っていたので意外だった。パンプローナ駅五時四十分発は、昨晩九時にバルセロナを出発した夜行列車なので、クシェットにはベンチシートで横になって寝ている人が多く、薄暗い車内で空シートを探すのに苦労した。やっと見つけたクシェットの片側シートに手さぐりで坐り込み、リュックを足元に置き、少しでも窓外が見えないかと目を凝らすうちに、二人共眠ってしまったようだ。ほのかに明らんできた頃、すでにスペインからフランス国境の駅終点のヘンダイヤに到着していたらしく、向い側に寝ていた青年二人共共、乗務員に起こされて慌てて下車した。
  期待していたピレネー山脈越えなのに全く予定外れの通過列車を選んだことに後悔しきり。それでも親切にたたき起してくれた乗務員がいたからこそ車庫入りを免れ、無事に旅行が続けられるのだと感謝の気持ちに変える。
  駅の構内ホームを移動することでフランス入国が自動的になるので陸続きのヨーロッパは便利だ。
  今日は土曜日なので両替所の心配をしたが、さすが国境の駅だけあって銀行業務の窓口も開いていた。四日間のフランス滞在に必要費用、日本円で四万円分1,560フランスフランを両替えした。二時間ばかり待ち時間があるので、ゆっくりとレストランで朝食をとる。周囲の会話もスペイン語とフランス語とが耳に入ってくる。フランス人嫌いの偏見で感じてしまうのか、店員やウエイトレスにも親しみがわかない。度量の浅い自分の愚かさに反省すること頻り。
  ここヘンダイヤから目的地のモン・サン・ミシェルまではどんなルートの列車を利用した方がよいのか、手元の資料ではすんなりと行けそうにない。ワインの産地ボルドーを含め二回の乗り継ぎの必要はわかるが、所要時間を確認するが出来ないので、とりあえずブルターニュ地方に向って北上する路線を選んで乗車することにした。
  車窓からの移り変わる景色を眺めるのが旅の幸せを味わえる時。大西洋に向って流れると思われる幾本かの川を通過し、広大なブドウ畑の連続、緑の多い平原は目にも優しいし気持ちもなごむ。
  陽ざしも傾きかけた頃、最後の乗り継ぎ駅レドンに着く。約三十分の待ち時間。この後いったいどこで宿泊するのか予測し難いので、とにかく駅舎内の小さなスーパーで非常食と飲物類を買っておく。
  乗り継ぎと待ち時間のくり返しでようやく夜八時半過ぎにレンネの町に到着。町はネオンサインで明るく照らされている。駅前には目立ってホテルの数も多いようだ。一緒に下車した観光客は、ホテルを目がけて一目散で吸い込まれるように目の前から去っていった感じだった。
  目指すモン・サン・ミシェルへ行く基地になる町のようだ。あまりにも観光客の早い行動に我々も刺激されて、とにかく明朝までの滞在だからと下見もせずに駅前のホテル190フランを払って落ち着くことにした。夕食は、日本からの最後の持参品となったレトルト食品の白飯と清し汁、それに駅のスーパーで買ってきたシーチキンとオイル・サーディンの缶詰で済す。ロビーに飾られたレンネの町を紹介したパネルを見ると、中世の面影を色濃く残す建造物がたくさんあり、又、学生の町としても有名なところらしい。ブルゴーニュ地方の玄関口「レンネ」にたった一夜だけの滞在がもったいないようにも思えた。

「モン・サン・ミシエル」

堤防からの遠望 モン・サン・ミシェル
80mの岩山に建つモン・サン・ミシェル全景
跳ね橋と王門
観光客で賑わう狭い中央通り
村の墓地 後方は大修道院
修道院への通路から砂泥の浜を望む
  明けて、きょうは日曜日。列車の時刻も変更していることが多いので、早めに行動を開始。階下のレストランで朝食を済ませ、駅へ急ぐ。ここからはローカル線が一日二本しか走っていない。それでも最寄りの駅ポントルソン止まりで、その先もバスに乗り換えて10km位走らねばならないらしい。それよりも直行便のバス料金126フランを払って行く方が良いと教えられ、ユーレルパスではローカルの鉄道を使えば別料金は要らないのにと思ったが、バス乗車を決めた。ところがこれも日曜日は午前十一時発の一本のみで、パリからの観光客を乗せたTGVの到着に合わせての出発らしい。
  早めの行動が裏目に出てしまい、結局は二時間余りの待ち時間の末、満杯になった直行バスに乗ることが出来た。レンネを出発して約二時間弱をノルマンディ地方の牧歌的な風景を楽しみながら田舎道を走る。乗客のどの顔も初めて訪れる場所への期待でやや緊張しているようにも思えた。はるか前方に写真で見たモン・サン・ミシェルの全姿が目に入るや、車内が急にざわめきがおこる。さすがに観光スポットとしての名声に応えるかのような壮大な姿が迫ってくる感じだ。
  モン・サン・ミシェルに到着。広大な駐車場には訪れる人達のおびただしい数の観光バスや自家用車が並んでいる。やっぱりここへは車で来るのが主流とみた。この地には二泊を予定しているので、のんびりと見学しようと決めた。モン・サン・ミシェルの岩山は六億年前にできたもので、湾は砂泥の浜が広がり、潮差が最大15mまでに達すると言うから見応えのある場所にモン・サン・ミシェル大修道院は建っていることになる。バスを降り、すぐさま岩山の頂上、海面から150mの先端にそそり立つ大天使の尖塔を持つ修道院まで登ることにする。何も性急にとも思ったが、主人の考えは何時なんどき天候が変るかも知れないし、どんな事故が起るかも知れないから、その時、その場での行動が必要だと。明日もここへ来られるから無理しない方が良いと思ったが、明日は明日でもう一度来たら良いというのである。跳ね橋の入口を渡り王門を潜ると、なだらかな石畳の狭い通りが続く。両側には木組と石積の伝統的な民家がびっしりと並び、ほとんどが土産物屋で、ありとあらゆるフランスみやげの品々が店頭を飾っている。カフェ、レストラン、居酒屋、プチホテルはもちろんのこと、とにかく中世から続いた老舗もあって、格調高い雰囲気に魅せられる町並みである。狭い土地区画の中で、先祖代々からこの村に住んでいる人々。村の教会や墓地も今日まで機能しているのだから驚異だ。
  重たいリュックは、島内の一流ホテルで、各国の大統領や要人達、日本の皇室や政治家の面々が泊まったという建物の狭い道を隔てて経営しているレストランで軽食をとり、受付であづかってもらうことにした。加えて、用足しの為、その由緒あるホテルのトイレを借りることが出来たのだ。ロビーや階段、レストルームも赤い絨毯で敷きつめられ、壁には投宿された有名人のサイン入り写真が所狭しと飾られていた。場違いな容姿の我々は周囲の目にどんな風に写っていただろうと想像して、話の種が一つ増えたことにニンマリ顔となる。日本人のツアー客にも二組ほど出逢ったが、ここでもちょっと立ち寄る程度の観光旅行なのか、制限時間を気にしての狭い道を走るがごとく写真撮りとショッピングであわただしく立ち去ってしまわれる、なんとも悲しい光景を見てしまう。楽しみ方の違いが他国の人々とはまるで違う、日本人観光客を他国の人の目にはどう映っているのだろうかと、またもや心配してしまった。
  さて、モン・サン・ミシェルの建物は中世初期に建てられ、高さは80m、砂泥の浜からこの岩山まで資材を運んでの建立は大事業だったに違いない。八世紀〜十六世紀まで、いわゆる中世建築のすべての様式が混在していると言われている。堂内には数多い礼拝堂や聖務室、食堂、厨房、共同寝室、ポーチ、テラスなど何世紀にも渡って再建、修理、拡張、改造を重ねているので、網の目のような複雑な部屋配置や、廊下の長短、勾配のバラバラな階段の数々に、迷子になってしまいそうだった。大変な混雑にまぎれ込んだわけでもなかったのに、二人で写真を撮ったり夢中で建造物の素晴らしさに足を止めて奥へ奥へと進んでいく内に、見学者の流れと逆に動いていることに気付いたが、時間に追われている我々でもないし、そのままつき進んで行った。少々疲れを感じて出てきたところが受付の入口だった。入場料を支払わずに見学したのかな、それとも無料のところを見学していたのだろうか。入場料一人45フランが高いとは知っていたが、この入場料は多分尖塔のある大修道院附属教会の内陣に入る為のものかも知れない。見学を終え、今更支払うこともないだろうと外へ出る。
2列の円柱が互い違いに
配列されている回廊
ロマネスク様式の遊歩道の間 ゴシック様式の堅牢な印象の室内
  さて、今頃の宿探しは、島内のホテルは高いとガイドブックに記されているので、ここより2km離れた村をめざし戻ることにする。道すがら日没まで写真を撮ったり、土手の草花に目をやったり、羊の群が厩舎に戻る風景に見とれたりしている内に、小さな集落にたどり着く。幸いホテルは空室があり二連泊を予約する。
  夕食も広い庭をへだててホテル直営のレストランがあったので、二種類のピザと飲物をオーダーする。ブルゴーニュ地方へやって来て、なんで「ピザ」をと思ったが、目の前で生地から作って焼いている職人を見ている内に即決してしまったのだ。でも空腹が満たされ満足な夕食となった。
  二日目、遂に雨となってしまった。マドリッド以来の雨だから、返って新鮮に感じる。荷物の整理もいらないし、すべて放ったらかしで遅めの朝食をとる。その内に雨も止み青空も見えはじめた。きょうもモン・サン・ミシェルへ出向くことにした。
教会堂のテラスから見下ろす
干潟が出来ている
幅広い堤防の道を横切る
プリプリに太った羊の一群
  ホテルから2キロ先、ゆるいカーブになった巾広いつち道、アスファルトになっていないのが実に奥床しい。遠くにモン・サン・ミシェルを見ながら、土手の進行方向右側は、かつての砂泥が肥沃な農地になって遠く浜まで続いている。ここではすでに百五十年前から干拓事業が行われており、左側も同じく砂泥の浜が牧草地帯に変ってしまっている。その先はまだ干潟地が連なり、潮の満ち引きが見られる。大西洋上の雲を背にしてモン・サン・ミシェルの全姿を見ながらみちくさしていると、時々マイカーの観光客が急に車を止めて写真を撮ったりしているが、ほとんどスピードをあげて通過してしまう。
  ここの牧草地で育った有名なプレ・サレの羊の群がグループを作ってこの堤防を横切っているのに出くわす。その群が横切る様子を見ていると、群のリーダーが一匹、先に道傍に登ってきて「メー」と声を発する。すると次から次へと全部が歩き、車道を渡ったことを確認したら最後にトコトコと走り終える様はなんとも可愛く、絵になる光景である。
  プリプリと肥ったまるで子牛のような大型の羊は、塩分を含んだ土地の牧草を食べているので上質の食肉になるらしく、特産品としてフランス全土珍重されている由。ここではそんな食材を使った料理を食べるべきかもしれないが、我々には食物に対しての執着心がないのは困ったものだ。天候のせいか昨日より人出が少なかったが、時折どんよりとした雲間から小雨が降ることもあったが、午後からはすっきりした秋空になった。モン・サン・ミシェルの村は、人がやっと通れるほどの小道もあり、道すがら古い民家の窓が目の前にあるので、のぞこうと思えばちょっと失礼出来る具合だが、どんな小窓でも可愛らしいカーテンが掛けられていて、いかにも御伽の国へ入り込んだのではないかと思えるほどだった。
  中世の巡礼者達も歩いて眺めたであろうこれらの村の佇まいと、今もほとんど変わっていないというから、我々もその真只中にいるという良き機会に恵まれたことに感謝するばかりだった。城門を入ってすぐにある、百年以上前の創業という「ラ・メール・ブーラル」は、田舎風のジャンボオムレツ屋さん。この地でも有名でレストランの厨房が道端にオープンされていてオムレツ造りが実演され、道ゆく人の注目を集めていた。たくさんの卵を割りほぐし、柄の長いフライパンにバターをとかしたところに流し込み、マントロピースの大きいような薪をくべた火床に乗せて焼き上げられる。長年使い古したフライパンの数々が飾りとして店の壁一杯につり下げられているのは、歴史の重みを十分に感じられた。
名物、田舎風ジャンボオムレツの
実演が見られる老舗の厨房
薪を炊く火床で、長柄のフライパンで
焼かれるオムレツ
  島全体が周囲が頑丈な城壁になっていて、これもその時々の支配者によって要塞として更に頑強に改築されたりして、今はその上を散策出来るようになっている。かなりの高さを歩くことが出来るので大西洋も一望出来るし、陸続きの方もかなりの距離を見渡すことが出来る。幸いにも潮が引きはじめたところで瞬く間に干潟が出来、あちらこちらから海に向って歩く人の姿があり、潮干潟の光景を目にすることが出来た。ここでの二連泊は、一ヶ月に及ぶイベリア半島の旅の中では、一番のんびり過ごせた場所となった。

続く   「サン・マロ」へ


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